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三陸前夜祭

秋分の日からの3日間、歌の旅を4カ所巡って参りました。
23日はアラフォーコンサートで栃木都賀町へと行って参りました。
プレミアムベストアルバム「一期一会」を発売した直後のコンサートで久しぶりに村下孝蔵さんの「初恋」を歌いました。この歌を歌うと村下さんが聴いて下さっているような想いになります。繋がっているのかな・・・って、信じて歌わせてもらってます。

栃木公演の後、小山駅から新幹線で仙台で一泊し、
翌朝は盛岡へ向かいました。
そこから大槌町まで車で2時間半かけて移動しました。岩手は四国が入ってしまうほど広いので、移動もそれなりに時間がかかりますね。
被災地大槌町での会場はパチンコホールを少し内装した特設ステージでした。
地元アーチスト達のこれまでの復興支援に向けた活動は本当に脱帽するほど、日々復興への活動を続けていました。
シンガーソングライターの松本哲也さんは、哀しみを分かち合う酒場をつくり、復興食堂という屋台村を各地で開催しています。
RIA+ノリシゲのユニットは最初は被災した実家の後地にテントを張って、そこからボランティアで瓦礫撤去の手伝いからはじめたそうです。
慰問ライブと復興のためのボランティアを繰り返しながら、地元漁師さんの夫人達ではじめた漁の網を使って浜のミサンガをつくり、4万個も販売されているそうです。
会場では「和」という書文字で書かれた、瓦礫で作ったキーホルダーも売られていました。
作り手の後藤くんは車整備工場に勤務していたそうですが、津波で工場も社長家族も犠牲になってしまったそうです。かろうじて助かった後藤君家族と家はあるものの、仕事も水も電気もなく、避難場所へと移ったそうですが、家があるもんは来るなとはじかれてしまったというのです。

悲しみや苦しみに順位があるのだろうか・・・・。
その話でやりきれない気持ちでいっぱいになりました。
それでも後藤くんは、だからこそ「和」という言葉に胸を打たれたそうです。このメッセージをこの大槌町から発信したいという想いで瓦礫に和を刻みキーホルダーにしたというのです。
哀しみのどん底から、歌がうまれ、メッセージが生まれ、希望の光を受けとる力が生まれて、なぜだか
地元ボランティアでお手伝いして下さったスタッフのみなさんは笑顔がまぶしかったです。
ライブに足を運んで下さったご婦人の中には、この日を心の復興の日としようと、はじめて歌を聴く気になったというのです。
いしがき音楽祭は翌日盛岡の各会場にて行われたそうですが、その前夜祭としてあえて被災地を会場に選んだ実行委員の深い思いに感動しました。
スタッフ、アーチストみんなで盛岡から大移動の往復5時間には重みがあるなと思います。
本当にお疲れ様でした。

翌日は盛岡から今度は山の方へ1時間半ほど車で移動して、96歳の祖母がいる介護ホームへと向かいました。久しぶりに母も同行しての里帰りでした。
ホームでのミニライブはみんな笑顔という表情になるためのほぐしの時間でした。
歌は本当に魂の体操でもあると思いました。
少し表情が硬い人々の表情がだんだんとほぐれて行くさまは、歌い手の醍醐味です。
歌が大好きだった祖母は口では「いくらでも歌えるさ」と気の強いことを言いながら、マイクを向けると口ごもって歌えません。でもみんな歌おうと、「赤とんぼ」や「ふるさと」「上を向いて歩こう」を私の口に合わせてなんとか声をだして歌ってくれている一生懸命な姿に胸がいっぱいになります。
普段はあまりしゃべらない○○さんが大きな声で歌ってくれてたね・・・と、施設長さんもみなさんの表情に感動して下さいました。
祖母は最後に私に向かって「もう、来るな」と言いました。
「なんでよ~おばあちゃん! 寂しいこと言わないでよ~」と返すと、
「ここまで来るのに金使わせることになるから、もう来ないでいい」 と、かなりなまりが強いので、介護の方に訳してもらうような会話の中、祖母の気丈な気配りは母そっくりだし、元気過ぎてわがままばあちゃんになっている祖母は私の未来だと痛感しました。
こりゃ、しばらく生きてくれるな・・となんだか少し嬉しかった。のどかで、周囲の方がとても暖かくて、りんどうの花がいっぱい飾られているとても優しい施設でした。おばあちゃんは幸せだなって思います。

歌の旅のラストは高田馬場に戻っての四谷天窓に出演されている福島のアーチストAVEくんのライブにゲストとして招かれました。 彼も慰問ライブを各地で展開しながら福島復興のために日々がんばっているアーチストです。
そんな彼にエールを込めて「会いたい」を歌わせて頂き、一緒に「名前のない空を見上げて」を歌いました。
短い時間ではありましたが、お互いに想いが通じ合えた濃厚なジョイントでした。

東北 歌の旅三昧 まだまだ まだまだ これからです。
これからも想いを馳せて歌います。