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ラジオ深夜便 こぼれ話

深夜23時15分頃から出演したNHKラジオ第一放送の
「ラジオ深夜便」 人生”わたし”流のコーナーで80分ほど、 アタシの人生語ってしまいました。

熱血スポ根少女時代のアタシは、フィンガー5のアキラやってました。10歳のお誕生日に祖母に買ってもらったサングラスが宝物でした。
思春期は複雑だったな・・・目立っちゃ行けない・・風潮があって、陰険ないじめも体験して、夜の新宿ディスコ時代があって、隠れてバイトもして、人並みな不良でした。
人として超未完成ながら、未熟な心でなんかいつも自分探ししていたのですね・・。
高校時代はバスケットからも解放されたくて、その想いが募って肋間神経痛になって高2で部活を辞めました。担任がバスケットの顧問だったから、バスケ辞めてから卒業まで無視されました。
これがズシンと傷を深めて、不登校になってました。
私にとっての「卒業」はこの苦痛からの解放でした。
それでも精一杯粋がって、踏ん張っていたから、
卒業と同時に鬱病になってしまった・・。

それでもなんとか笑顔取り戻そうとスマイル0円のマクドナルドでバイトしてみたけど、3ヶ月もたなかった。(今でもマックは大好きです)
19の秋、専門学校からも見放されて・・・夢のなりフリーターを経て、二十歳で社会復帰するために、
警察署内交通安全協会という手堅い場所に身を置いたわけです。

「夢を見つけることからはじめよう」
「天職に転職しよう!」
とキャッチフレーズを掲げた成人式の夜。
この日がターニングポイントだった。

人から人へと見聞を拡げ、ご縁はカラオケパブで生まれました。
安全協会のガールズ新年会で歌った杏里さんの
「悲しみが止まらない」を別の席で聴いていた
市役所のブラスバンドの方々から、「今度の成人式のセレモニーでこの歌、歌ってください!」とナンパされたのです。いや、あえてスカウトくらいにしておくか。

コンサート会場大ホールでブラスバンドの生演奏で歌った「悲しみが止まらない」に味をしめて、そのまま
その有志とバンドをはじめたわけです。
休日のライブハウスで週一のお遊びでした。
それが気づくと人が人を呼んで、とりあえずライブというかっこうがついたころ、地元のバスケットの先輩が私の歌を聴きにきてくれるようになったのです。
ただ、ただ嬉しくて、楽しくて、それだけで満足な日々でした。

それが、夢の種のはじまりでした。

ま、こんなリアルなアタシは放送ではかなり短縮でオブラートに包まれておりましたが、人生を振り返るたびに気づかされる事。
それは哀しい想い出は全てが必須アイテムであったということです。
そんな駄目駄目な自分がいたからこそ、味わう痛みです。
痛みをくれたご縁は、大切な教訓を与えてくれていたのです。

癇癪(かんしゃく)の「く」(苦)をとれば、感謝になる・・という教訓を気功を施術してくださった方から言われました。
それは年齢を重ねると「気」が長くなるのではなく、
実は歳をとると「気」が短くなるのだそうです。
「気」のエネルギーが減ることでさらに短くなる。

青春時代の気は漫ろ・・・・そして壊れやすい。

アタシの人生 気を抜くとすぐ漫ろになってた。
さ、しっかりと気を入れて参ります。

ラジオ深夜便でいろんなこと振り返りながら、
今のこうして、腰痛くらいの痛みでよかったと
しあわせを噛みしめました。